ネパール滞在記1993

 時は1993(平成5)年、前年秋のヨーロッパ滞在やフィールド調査を終え、卒論提出もようやく終えました。
 ぼくは、女満別空港で各紙記者に追われたり、多くの友人たちに見送られ、1月31日
冬の網走を発った。東京で2泊し、当時、東京の看護学校へ行っていた妹に会ったり、現地で使う教材などを準備した。

 

 2月2日に成田から出国した。

途中、バンコクで2泊した。登山用の70㍑ザックに風船の地球儀や、地球や世界などのポストカードなどの教材や生活品などを背負っていた。

 ネパール、カトマンズの空港にはランタン基金現地窓口のアジャさんが出迎えてくれ、翌々日、人はもちろんヤギや穀物の麻袋で屋根まで満載したバスで80kmほど離れた目的地であるランタン街道沿いにあるベトラワティ村に1日かけて着いた。

 この国の最初の印象は、土埃のひどさと香辛料の匂いだった。

 男性はみな犯罪者のように怪しそうに映り、女性はふくよかできれいに見えた。あちこちに見られる寺院や行き交う人々の群れが異文化の地に来たことを実感させた。

 当時1ルピー=約5円、GNPは日本の1/100程度だった。

 標高500mくらいの温暖な村は、木のない山々、その向こうに白く輝くヒマラヤ、ガネッシュヒマールが望め、水田とトリと呼ばれるナタネの黄色い花の畑が広がっていた。
朝向こうにあった雲は、夕方にはこちらという感じで、乾期だった気候は安定していた。
ゆったりと素朴で、山々に緑がないことを除けば昔の日本の農村風景のように感じられた。
時差は日本より3時間15分遅れている程度だった。

 村では、チャクラさんという薬局をしている家に居候させてもらった。
2階に個室を用意してくれた。部屋の窓からは下にみんなが行き交うランタン街道、トリの黄色い畑が望め、ときにはツバメがつがいで入ってきたりと良い部屋だった。

 食事は、朝がゆで卵とティー、その後インディカ米のパサパサしたごはんにすりつぶした豆汁、お昼ご飯はなく、夕食は朝食とだいたい同じだった。ネパールでは、ごはんと豆汁、そして小指ほどのバレイショやカリフラワーのカレー炒めといったダル・バードというセットが主食だった。
それでも村の中では恵まれた食事だった。日本のイラ草に似た草を主食にしていたり、小さな指ほどのバレイショばかり食べている家庭も周辺には多かった。鶏卵はまさに貴重品で贅沢な栄養源だった。

 ぼくは、朝に子供たちが「ヒデキ・サー、ジャーニ(先生、行こう!)」という迎えの言葉を合図に、一緒に手をつないで学校までの砂利道を歩いて通った。

途中、まったくネパール語を勉強していなかったぼくに、あれは「石」だとか「山」だとかいう単語を教えてくれた。

 この国は時計というものが必要なく、本当にルーズだった。

道にはヤギやニワトリがうろうろしていた。

ヒンドゥ-教のこの国は、衣装も習慣も新鮮で、牛肉は絶対に食べなかった。

牛は神様なのだ。

 この私立学校では、イギリスのオックスフォード大学出版の教科書を使用していて、ぼくは日本でいえば幼稚園、小学1、2年生の子供たちに英語や絵画などを教えていた。

 子供たちは窓ガラスもないコンクリートだけの教室で、キラキラと楽しく勉強していた。制服はボロボロで、くつもくつ下もなく、筆記用具もみんなが揃えてはいなかった。

それでも子供たちは遠くは山道を3時間もかけて歩いて通学していた。

 授業のない時間は校庭で「兎の目」や「沈黙の春」を繰り返し読んでいた。

学校は10時くらいから15時くらいまでで、またみんなと楽しく帰ってからは、村の人たちと軒下でティーを飲み、雑談した。

 よくいろんな人たちが夕食をごちそうしてくれたり、ロキシー(焼酎)を飲ませてくれた。
祭りの日には、みんなで歌ったり、踊ったり、大麻を吸ったりしていた。

 夜は、ある1人の日本人がネパールの貧村に小さな水力発電を試みた「村に灯がついた」という本を読んだり、ノートで出会った人や教えてくれた単語や文法の整理をしたり、彼女や応援してくれた方々へハガキを書いたりして過ごした。

 この国は土曜日が休日で、その度にぼくはランタン基金が支援している水道設備やヤギ支援、支援要望のあるさらに山奥にある小さな集落を一つひとつ訪ねた。

行く先でよくいただいたのは牛乳で、それも水牛の乳だからとてもくさかった。

ぼくの口に合ったのは、ニワトリや川魚料理、米を砂糖で煮た甘い料理などだったが、次第に現地の食生活に慣れていった。

 時間の流れがゆったりしていて、気分が良かった。

誰1人何かに急いでいる風はなかった。

 日本では考えられないような、死に方をした人をたくさん見た。

氷河から流れくるトリスリ川の水を汲みに行って溺れたり、栄養失調だったり。

 病院はなく、薬も満足にはなく、ぼくの滞在先だったチャクラさん宅には遠くから夜にも急病人がきたりして、満足ではない治療をしていた。薬はたいてい中国のものだった。

 ぼくのいた村は電気があっただけ文明的だった。

電気はトリスリ川の水力発電でインドが権利を所有しており、その関係なのか朝夕に停電になったりした。まだ、みんなほとんどはランプで生活していた。

 トイレという場所の習慣はないに等しく、ほとんどの村民が河原に行っていた。

当然入浴の習慣もなく、ときおり水浴びをする程度だった。

ぼくは、別にそういった生活は苦にならなかったから、みんなと同じように生活していた。洗髪しないかゆみは3日程度で、その後は慣れてしまう。

 いつか郵政省ボランティア貯金の支援確認の視察団が見えて案内したことがあったけれど、あんな日帰り観光でいいのかなとも疑問を持った。

もらった名刺の中には国会議員やどこかの市長までいた。

 隣り街のトリスリにあった日本からの海外協力隊が現地でのタンパク質食料の確保提供のためと淡水魚の養殖試験をしていて訪問したけれど、現地の人は立ち入り禁止で、隊員も現地の人とは異なる宿舎で隔離されて生活していた。現実は池にたくさんの魚を養殖しながら、現地の人には技術はもちろん1匹の魚さえまだ提供されてはいなかった。たまたまH大水産学部の人がいたので日本の最近のことを話してあげたりした。任期の2年を1年延長している人で、週末には民家へ泊まりに行くという心ある人だった。

 ぼくは、ネパールにいながら、夜見る夢はいつも日本での生活ばかりだった。中学校の頃淡くあこがれたOさんの夢や大きなクモの出てくる夢などだった。

歯痛があっては1人苦しんだりもした。

 毎日日記をつけ、みんなとは筆談用にノートを持ち歩いていた。

 新しい寄宿舎を建てるのに、村民みんなでセメントと遠くの沢からホースで引っ張ってきた水をまぜ、たらいに入れて手渡し方式でコンクリートの屋根など夜中までかかって作った。ぼくの心は学校祭なんかをみんなでやりとげる充実感みたいなものを感じた。

 

 ときおり夜にやさしい雨が降ることがあり、そんな日にべちゃべちゃの夜道をランプを持って帰っていると、アニメのトトロがでてきそうな雰囲気だった。

それでも、山からヒョウがでたりと怖い夜もあった。

 代表の西村さんが滞在中に訪れた。

何年も訪問しているだけあって、地域の神様のような持てなしを受けていた。

道端の子供たちにはアメ玉を振る舞っていた。

 西村さんは80才にもなる高齢で、村民の方にカゴで背負われながらも、山あいの集落をぼくたちと一緒に訪ねたりした。小学校の教師を定年し、奥さんに先立たれて、絵画をしていてネパールを知ってから、10年以上も子供たちに涙しながら情熱をもってランタン基金を創設し、運営している方だ。

 ぼくは、昔の日本の貧しさも知らず、教育現場も知らず、子供たちを愛する心もすべて西村さんにはかなわないだけでなく、ぼくのような青年から客観的に西村さんを見るとその行為は、自分の居場所をこの国に投影し追求しているくらいのように情熱的に映った。

 ぼくは、1度休暇をもらいテェクさんと村の道の最終地点、チベットに近いドンチェに行き、ラジェンドラさんと3人でゴサインクンドという聖地へ1泊で登ってきた。

 1日で4,300mまで登ったものだから高山病になり、頭痛と食欲不振になった。

 7,000m級のランタンヒマールが間近にそびえ、途中の村ではチーズをつくっていたり、チベットに近いせいかラマ教の宗教色が強く感じられ、日本の仏教的な感じに少し近くなった。

 ラリグラスと呼ばれる国花の赤いシャクナゲがきれいだった。

運動靴で行ったゴサインクンドは湖も凍っていて一面銀世界だった。

ヒマラヤの雪は、結晶が細かく鋭くささるような感じだった。
下山して村へ帰るときにはバスがストライキをしていて、テェクさんと20km歩いて帰った。

 本当に現地の人たちは足が強い。素足だ。

この国の人たちの引き締まった体、特に足を見ていると人の体というのは、生活や環境に順応していくものなのだと、つくづく感心した。

 ある日、先生方の許可を得て、念願だった課外授業をクラスごとに分けて実施させていただいた。

 安全な川へ行ってみんなで魚とりをした。

結局1匹しか捕れなかった魚をみんなで分けて食べたり、その際に解剖をして、魚の内蔵器官の説明をしたりした。一応、英語で先生に説明し、ネバール語で解説してもらった。

学外授業がないためか子供たちは、またやって欲しいとせがんでくれた。

 ときには、ぼくの覚えた単語の発音がいけなかったらしく、雌鶏の単語が女性の性器に受け取られて子供たちやインドから来ていた女の先生たちに笑われたりもした。

  ぼくは、日本のような清潔さや衛生感覚がない中でもあまり気にならなく、子供たちやみんなと接することができた。

学校の帰りにウンコを漏らしてしまった子供を抱えて家まで走って送ったりしていた。

 ネパールでは、トイレも紙で拭く習慣はなく左手をつかい水で洗ったり、食事は右手で器用にこねてつまんで食べていた。

 子供たちはとても人なつっこくて、ぼくを学校帰りに家に招待してくれたけれど、行く先々の家庭はたいていお父さんはカトマンズに出稼ぎに出ていて、お母さんは畑に行っていておらず、一緒に帰った子供がすぐに薪を集めてきては煮炊きの準備をしたり、弟や妹の面倒を見たりしながらぼくにティーを入れて接待してくれた。

 土と牛糞とワラでつくられた家の中にはムシロ、かまど、そしてナベが1つある程度だった。そんなまだ幼い子供たちがそんな家の生活の一部を支え、学校でぼくと勉強しているのかと思うとせつなく思った。

 村には官立の学校にさえ通っていない子供たちが結構いた。特に女の子が多かった。

 村から離れた山にへばりつくような集落にはもっといただろうと思う。

そういう子供たちはヤギのえさとなる木々の葉や燃料の薪を山に取りに行ったり、水汲みに行ったりしているようで、ときおりぼくと通学している子供たちをうらやましそうに眺めていた。

 当時ネパ-ルでの女性の識字率は30%にも満たなかった。

だからなのか1991年に王制から一部民主政治になったばかりのネパ-ルの選挙戦は政党名などの文字ではなく、木や太陽などの絵柄だった。家々の壁にペンキで誰を支援しているといったことを表していた。

 ぼくは、現地の人たちと支援先窓口のアジャさんに支援先や経理事務などに誤解がある度にカトマンズへ行ったりもしていた。

この国の人たちはODAを扱う官僚はもちろん、一般の人たちでさえ懐に若干入れてしまうくせがあるようだった。

 

 カトマンズへ行ったときには、村の友人が映画やTVを見せてくれたり、市内観光をさせてくれた。
TVはインド放送のものだったけれど、当時流行していたのが日本の「おしん」の吹き替え版番組だった。スズキやP&GのCMも流れていたのには驚いた。

 市内の界隈にある食堂で食べたチャウメンやモモと呼ばれる餃子などチベット料理は本当においしかった。

 カトマンズは、交通(環状線整備)、ゴミ処理が問題で国際支援を受けていると村の友人が教えてくれた。

 川岸が火葬場でもあるパシュパテナートとその川で沐浴をしている人々の日常的な姿を見ていると「死」と「生」がつくづく同居しているように見えた。

ボダナート、クマリーの館、トリブヴァン国立大学などいろいろと見させてもらった。

 この国では、カーストと呼ばれる差別階級が残存し、それに47もある民族の差別も混在していて、その上に統一 政治国家と共通ネパール語があるという複雑な社会だった。英語を子供に習わせたいというのは、英語という言語手段をもってバンコクやシンガポールで外貨を稼いでもらいたいという当然の動機のようだった。

 ぼくのような長期滞在者はビザの延長に銀行での一定額以上の通貨両替証明が必要だったし、帰国する際には一定額以下しかドル換金できないという徹底した外国観光客を対象とした外貨獲得政策だった。

 民族独自の言語を持つ民族もいれば、全く文字を持たないタマン族など口承文化民族もいるし、それでも教科書や共通語はネパール語、そして英語教育といった学校教育を卒業して村から離れていく多くの若者たちのことを考えると、その学力的な負担はもちろんのこと、生まれ育った村や地域文化や家族の崩壊が暗く急速に進んでいるように感じ、自分が学校で英語を教えている意味に戸惑いを感じた。

日本は単一民族だと言った日本の首相もいたけれど、日本のようになってほしくないと勝手ながら思った。

  ぼくは、3月19日、この国で何か今まで意識していた自分というものとは異なった感性のようなものを感じ、ときには冷めた異邦人としての客観的な気持ちを持って、ときを一緒に過ごした人なつっこい懐かしい人たちや風景と別れた。

  帰国時、また乗り換えのため滞在したバンコクでは、やはりネパールに行く前とは違い、経済成長に成功した先進国としてぼくの目に強烈に映った。

ぼくが見つけて宿泊した安宿では、湿度が高く、じめじめとした、まとわりつくような熱帯夜の中、ぼくは天井を這うヤモリを眺めていた。

どこかから聞こえてくる当時流行していた「ボディガード」の歌が流れていた。何度も主人がタイ語で女の子いらんかねとドアを叩いた。近くから見知らぬ国の女の子の悲しい悲鳴が聞こえていた。
 

 ぼくが成田に降り着くと、東京の実家に帰省していた彼女が出迎えにきてくれていた。

 ぼくは体重が落ちてはいたけれど、一緒に羽田から女満別空港に向かう空の機中、彼女にずっと体験してきたことを狂ったように言葉にしつづけた。

 

 


 ぼくがなぜネパールに興味を持ったのか?と聞かれると、やっぱり第1にヒマラヤをこの目で見たかったということになると思う。

 次にこの物が豊かな日本の人々が時に気持ちで支援するその実態と影響というものを現地の人の立場になって感じてみたかったということになる。

ぼくは自然が大好きだったし、経済的な効率良さで物事を片づけてしまわない人と人の協働の触れ合いも好きだった。

日本のスーパーやコンビニには食料をはじめ物があふれ、何でも使い捨ての消費が美学といったところには正直うなづけないところも少しは感じていた。

 ぼくは滞在中、ひたすら日本が豊かさを求め続けてきた結果が、人として大切な物の価値や心を知る上でその輪郭をぼやけせさてしまっていて、だから今いる発展途上のネパールは、このまま素朴であって欲しいと勝手に願ったりと矛盾を感じた。

 ネパールの人々は確かにお金はもちろん生活基盤、経済資本、医療福祉、社会保障もないけれど、それでもぼくから見ればみんな生きることに輝いていたと思う。

いくらそういったものに恵まれた日本でも、札幌程度の地方都市でさえ、隣りに住むお年寄りが3ヶ月も衰弱死していたのが気付かれないといった異常さなのだ。

 日本では、蛇口をひねると水が出て、コックを回すとガスが使え、体が痛くなれば病院へも行け、子どもたちすべてが義務教育を受けることができるけれど、それは普通の一般人の話しであって、お金はもちろん、きちんとした職業など身分の保障がなければ水道も電気もガスも保険証も教育も満足に享受できないかも知れない、

実は子どもや社会的な生活弱者にとって日本はもしかすると末恐ろしい国だと重く感じた。

 ネパールの人々は個性や生きがい、地位や名誉といったものの以前に、今日一日をどうやって食べていくかという生きる上で切実な課題を小さな社会と共に精一杯に専念しているのであって、ぼくは同じ時代を共に生きている地球人として、また日本人として、彼らとどうつながり関わって行動していって良いのか、今でもはっきりとわからない。

 教育の充実による意志疎通が図られ、経済的に対等した国と国でさえ、宗教や文化、国際主導権などをめぐり戦争や紛争が絶えないのに、果たして外国の経済や教育支援をしていく意味があるのだろうかとも思うし、確かに人類共通の問題が山積している現代において、経済や認識格差が1つの壁となって各国の足並みが揃わないでいるのも事実だとも思う。

 ぼくの感じた理想は、どの国に生まれても、その子どもが健康に、幸せというものを自分で自由につくりあげるためには、やはり教育を平等に受ける機会が得られることが大前提であり、その教育自体が個人の自由選択と責任における幸せの意味や個人が所属する国家や宗教、文化、習慣、言葉を超えて、相手のその幸せを理解し尊重し合えるようになることが最も大切なことなのかも知れないと感じた。

そういう意味では、日本をはじめ各国が行う「教育」という、特に子どもへの義務教育の認識や意義というのは、国民性や民族文化との枠組みの中で本当に難しく、また非常に重要な影響を及ぼすものだと感じた。

 ネパール政府が指揮管轄するその国の教育分野に、たまたま興味と縁を持った1人の外国青年が個人レベルの私立学校建設支援を通じて1人でも多くの子どもに理想の一部を伝えるということが果たして意味のある良いことだったのかどうか、ただでさえ燃料資源や栄養の少ない地域でかえってそれらを浪費させただけに過ぎなかったのではないか?などと問うて考えると、それはその青年、つまりぼく自身の良心、価値観に委ねられる本当の自己責任の行動であり、その経験したこと、感じたことをいかに日本に帰ってきてから生かしていくのか、伝えていくのかと、今になっても何1つ答えも行動も見いだせずにいる自分をずっと深く反省している。

 

―おわり―

 

1996(平成8)年記ー


ネパール就学支援に尽力
西村さん死去に惜しむ声

 ネパールの就学支援を続け、2年前に解散した北見の非政府組織(NGO)『ランタン基金の会』の西村正義代表が4月20日、北見市内で九十三才で亡くなった。教育の充実を目指し、ネパールと日本の架け橋になってきた西村さんの死に、関係者から惜しむ声があがっている。
 旧端野町出身で元教員の西村さんは退職後にネパールを訪れた際、貧しい子供たちが学校に通えない現実を知り、91年に『ランタン基金の会』を設立した。
 会員などから寄せられた募金をネパールの村に送り、小学校や寄宿舎を約30棟建設。親を失った子供のための里親制度もつくり、支援を受けた子供は二千人以上にも上った。同会事務局長は、「西村さんがネパールに来ると、口コミで知った現地の人がたくさん訪れる。神様のような存在でした」と振り返る。
 同会は、西村さんの体調がすぐれないことなどを理由に解散。しかし、西村さんのネパールへの想いは尽きなかった。
「先生の家を訪ねると、ネパールでの活動についていつも話してくれました」と語るのは、教諭時代の教え子(57)。
就学率が低いネパールについて、西村さんは「磨けば光る子供たちはいるんだ」と教育の重要性を強調したという。
ネパールに何度も足を運び、見守り続けた西村さん。関係者たちは「西村先生の教育に対する情熱はすごかった。今はお疲れ様でしたと言いたい」と悼んだ。

(北海道新聞オホーツク版2008(平成20)年4月26日(土)記事より)