短編集

同人誌に掲載などしていただいた中から、ごく一部を紹介いたします。


アポイ岳

本州の人でもアポイ岳は憧れの山なのだそうです。
険しい日高山脈の主稜でもなく、その支稜のコブのような山。
標高810.6mです。
こんなに人々に愛されているのは、その高山植物の豊富さにあるようです。
過去にサハリンや千島列島、北海道が陸続きだった頃に南下してきた北方系の高山植物がそのまま環境的に取り残されてきたのだそうです。
また、日高山脈は、道内でも夕張山系、北大雪、東大雪同様に非火山で造山活動によって形成された山です。
アポイ岳は世界的にも珍しいカンラン岩の岩石で、風化が遅いというのも特徴のようです。
補足すると中世期ジュラ紀より新世代第三期にかけた地殻変動により海底部が隆起したもので、ヒマラヤやスイスアルプスと同じ生成過程で、日本では珍しいものです。
さらにアポイ岳は、太平洋に近いため濃霧が発生しやすく冷涼なため、高山植物の生育には最適な環境であったと云われています。
そのため、アポイ岳には80余種の高山植物が自生し、中でもここだけの固有種として、エゾイヌノヒゲ、ヒメエゾネギ、アポイカンバ、ヒダカソウ、アポイアザミなどが数多くあります。
標高が低く登りやすいのに、お花畑に恵まれ、そして固有種が多いのですから、全国から高山植物を愛するファンがやってくるのもわかりますね。
 そのアポイの語源は、「火の・ある・処」や「知恵の山」などといろいろな諸説があるようですが、どれが定説なのでしょう。
 いずれにしても、雨も上がった、登り始めた6:35にはすでに100名近い登山者が先行している程ですから、いかにたくさんの人たちが訪れているか、が、わかります。
 印象は花とヘビでした。
この山で驚いたことは、山でのトイレ対策も含めて登山口にきれいなトイレがあること、看板が統一されていてきれいで解説付きでわかりやすいこと、さらに登山開始直後の沢に登山靴を洗うブラシが設置されていることでした。つまり、他の山も歩いてきているぼくたち登山者の靴の裏についてきている土から外来種子を持ち込ませない対策のようなのです。
そんなアポイ岳でしたが、大木のないヒダカゴヨウマツ、エゾマツやトドマツ、そして一般的な広葉樹が混交した明るい森林帯の麓で、ツツジやシャクナゲに包まれた山でして、登山自体、非常に楽ちんな山でありました。
頂上もカンバやサクラの木々に囲まれた広場でして・・・天候は濃霧。
 下山時には乾燥した広いどこかの森林公園のような、作業道のような整備された路を辿り降りました。
南斜面に土砂崩れ防止をしているところで、3人でこういうところにはヘビがいるんだよなあ、、、
昔なあ、この山麓でマムシが飼育されていて逃げたらしいぞ(?)、
ダニも多い山だよなあ、、、などと話していたとき、
唐突にFリーダーが「ヘビだっ!」
その一言に、ヘビがキライなK氏とぼくはまさしく飛び逃げる。
恐る恐る戻ってそろりと覗き込むと、灰色で艶のないヘビが「いる」。
なんで、そんなタイムリーにヘビがいたんだろう・・・
これって、マムシだったのかなあ、、、
確かに体は太くて、短くて、頭も三角形と云えば、そんなような・・・
 11時には、優しい海の蒼と緑を眺めながら、露天風呂に入って、ゆっくりと太陽を浴び、体をいたわったのでありました。
(2002年6月記)


初めての札幌近郊登山

赴任してきた札幌の街からは山並みが連なっていつも見えています。
まだ山名や位置関係がわからないまま、通勤電車から眺めています。
機会があって、いつものFリーダーと、リーダーが連れてきてくれた若い女の子2名と一緒に湯ノ沢から空沼岳1249mへと行ってきました。
この日、土曜日の天気予報は曇りのち雨。
 採石場内を申し訳なさそうに過ぎ、真駒内川に沿った林道に登山口はありましたが、札幌一番人気と聞いていたのに、到着した8:30でも先行者は数名程度で驚きました。
ここからは支笏洞爺国立公園なのですね。
片道7.7kmの登山路なり・・・あの知床羅臼岳よりも長いのか・・・
 天然林らしい針広混交林には野鳥たちへの古い巣箱が多数設置されているのが目につきます。ササの中に木の根の土路がたらたらと続いていきます。
コマドリやウグイスが歌声を響かせ、まだ初対面同志のぼくは明るい言葉を探しながらの登山です。登りはひどく緩斜です。
やがて(ホントウに単調な路なので)、妖しく蒼色の大きなシラネアオイが咲く滝が現れ、静かな湖畔のという感じの万計沼(ばんけいぬま)に辿り着き、山の中にひっそりと佇む沼の美しさの存在がとても新鮮です。
大きな万計沼小屋が南を向いてどっしりと陽を浴びています。
そこからもたらたらとした路をゆき、やがて(またしても単調のため)
真簾沼(まみす)の横を辿りますが、全体的に雨天時またはその後には泥と滑りで歩きたくない登山道の印象を受けました。
サンカヨウとツバメオモトの白い花たちが眼につきます。
まだ一部、雪渓も残っていて、涼しさを感じさせてくれます。
やや急登を登って、札幌岳への縦走路との分岐に到着し、そのまま左に空沼岳方向へ。
11:55、ハイマツに囲まれた頂上に着。(ビールを忘れてきました)
 エゾシマリスが走り回り、眼下には札幌の街並みが輝いています。
視界は半分程度で、楽しみにしていた恵庭岳や支笏湖方面は雲の中。
札幌岳がかろうじて雲の流れの移ろいの中で確認できる程度。
それでも、ここまで天気も持ちました。
この山は紅葉の頃が、沼めぐりの雰囲気があって良さそうですね。
 今回同行した方は花や植物にも詳しく獣医師免許を持つ控えめな公務員さんと、初心者と自称するもその体力や脚力と純粋な明るさを持つ子で、下山する頃には人見知りもなくなり、いろんな話を楽しくしました。
その中の話題をひとつ。
「人にあって他の生き物にないものとは何でしょうか?」
理性、涙、うそ、笑い、記憶などなど、いろいろとでましたが・・・

それは犬にはあるよね、それは牛にはあるなあ、などと後戻りの繰り返し。
みなさんは何だと思いますか?
 下山後、国道36号線近くにある某温泉に寄りましたが、入浴料大人1900円の看板を見て、玄関にて潔く引き返し。
まして、ぼくのようなカラスの行水者にとっては全く価値のない額であります。
(2002年6月記)


七夕さまですね

北海道各地のほとんどの「七夕」は、一ヶ月遅れの8月7日ですが、全国的には「七夕」ですね。
一年に一度、夜空の天の川をはさんで彦星と織り姫が会える日ですね。
 こないだ文化財保護や遺跡発掘で有名なある先生とお話をする機会があり、「心に残るいい話」を聞きました。
その先生が、上京したときにふらっと小料理屋さんに立ち寄ったときのお話です。

先生は、お酒が好きなんですね。
暖簾をくぐった小料理屋さんには、片言の日本語を話す外国の若い女性がお手伝いをされていたそうです。
翌年以降、機会があるたびにその小料理屋さんに行かれたそうですが、先生のその回数は、年に1度程度だったそうです。
ある年に、その先生がその小料理屋さんの暖簾をくぐると、その女性は
「七夕さまですね」と微笑んで、席へと通してくれたそうです。
 その話をしながら先生は驚いたねえ、驚いたねえと、しきりにぼくに言います。
こういうことなのですね。
その女性の日本語が年々上達したということではなく、年に一度程度しか来ないお客様を覚えていてくれて、そのような情緒ある日本語の例えで表現してご挨拶をした、そのことが素晴らしいねえ、と云うのです。
そして、そんな感性や言葉の表現を、今の日本の若い女性は持っているのかなあ、と、つぶやきました。
(2002年7月記)


恵庭岳

いつも釣りをしている支笏湖からその鋭意な姿を湖面に逆さまに映していて、ちょっとひそかに行ってみたかった恵庭岳(えにわだけ)1320mに行く機会に恵まれました。
エ・エン・イワ(頭が尖っている頂の意味)通り、まだ噴火口を持つ円錐形火山で、その爆裂火口は東側にポロピナイ沢として湖岸にのびている山です。
 朝早く起きて、フトンなどを洗濯して、朝晴れのベランダに干してから、待ち合わせたSさん、Iさんと札幌を出発しました。
 今回の同行者は、6月に一緒に空沼岳へ登ったお2人さんなので、ずいぶんと平均年齢の若い山行です。
国道453号線沿いにあるポロピナイ登山口から、ようようと3人で出発したのは、9時25分。
砂防ダムの横を通り、薄暗いトドマツの林を辿っていくと、急登が現れるも、登山道はジグザグに優しく続いていきます。
 10以上のパーティが先行していて賑やかです。
ぼくたちは「黒岳」と大きくプリントされた赤いTシャツを着たご家族連れや若い大学生パーティの方たちと抜きつ抜かれつ、足下にある名前の知らないいろんなキノコ、ツバメオモトの群青色のビロード球の実に包まれながら、歓談して歩を進めておりました。
「あなたの夢は何ですか?と訊かれたら、どう答えるかなあ?」
「一週間以内に叶えたいこと、できることって何だろうね」
そんなたわいもない、だけれど子どもの頃の時間や可能性に比べたら、どこかで失ってしまったものの欠片を探すような、そんな会話をしておりました。
 再び、胸に「黒岳」の人が追いついてきます。
 樹林帯は新しいのか、ササがなく、林床は明るい感じです。
Sさんが、これはタケシマランかなあ?、これはギンリョウソウかなあ?といろいろと教えてくださいます。
6合目を過ぎるとあちこちにロープが張られ、その急登が楽しいものになり、また同時に落石に注意となります。
 そしてポンと飛び出たところが「見晴台」と呼ばれる地点。
雲に包まれながらも、支笏湖岸の柔らかな曲線や湖面、爆裂火口などが一気に一望できる映画館の客席のような、安山岩が露出した所です。
ここから約30分ほど先にある第2見晴台地点から頂上までは、崩落の危険のため登山禁止になっているとの情報だったので、行動はここまでとすることで一同納得(賛同?)し、ランチタイム。
女の子は、やっぱり食べ物に対する感覚が違いますね。
フランスから持ち帰ったというブルーチーズとかというものを初めて口にしましたし、今流行しているという「カスピ海ヨーグルト」なる存在も初めて知りました・・・。
 ゆっくりと眺望を楽しみ、黒岳Tシャツの人と会話をしてから、12時に下山開始。
ロープの補助をいただきながら、せっせと急登に足を落としていきます。
ようやく緩斜面の樹林帯になった頃から、またあれこれと会話。
なんでも2人は職場で知り合ったようで、まるで恋人のように仲が良い。
Iさんが、立ち止まり、陽射し差し込む林を見つめ、幹に触れて云います。
「自然の色って、きれい」
誰が言うわけでもなく3人は足をとめ、無口となり、じっくりとその樹林の空間を遠近と見渡し、静かな時間が流れます。
そして時間と意識を感じたとき、再び麓へ向けて歩を進めます。
鳥にでも食べられたのだろう、腹部を失ったエゾゼミが、透明な羽と背中の美しい文様を見せて、パタパタと生きていました。
拾い上げて、そっと樹の元へ。
日本人の情緒や季節を感じる心や言葉の繊細さについて話し合いながら、そして明るい午後の陽光を浴びた砂防ダムのコンクリートに迎えられました。
 いとう温泉へ行き、湖岸にある露天風呂で、湖から渡ってくる風を感じながら、贅沢に体を湯で癒していきます。
 2人がさわやかな素顔で温泉からでてきたとき、一緒に見上げた湖の空には、筆で描かれた絹のような秋色の雲が高く彩られていたのでした。
 そして、ぼくの思考回路や感覚にないことを次に2人は云います。
「ソフトクリームが食べたいよう」
(2002年8月記)


水たちの暮らしをみた~南暑寒岳

土曜日、天気予報は、雨。
山岳会の先輩である岩見沢市のF氏、室蘭市のK氏と一緒に暑寒別岳を主峰とする増毛山塊へと出かけてきました。
 めざすは、南暑寒岳1296m。(みなみしょかんだけ)
ぼくたちは、この秋に計画している日高ペテガリ山行の打ち合わせも必要でもありました。
 すでに札幌のS氏も前夜から登山口で泊まり待っていました。
久しぶりの再会。
日頃の激務の中で、春から初めて休暇がとれたと云うS氏は、そのまま登らずに待機するとのことで、別段、それらはぼくたちにとって予想するに簡単なことでもありました。
 ポツポツと空が泣き出す中、雨具を着て、3人で登山口から続く林道を歩いてゆくと吊り橋が現れ、そして登山道はぺちゃぺちゃドロドロの山路となって続いていきます。
やがて、その路上から膨大な水塊が放物線を描く水瀑「白竜の滝」をのぞき込む地点を過ぎ、再び歩を進めると、トリカブトの紫花の群落を過ぎて、2つめの吊り橋を渡ります。
ここから濃霧に包まれた尾根とその向こうにある台地へと滑りやすい路を登っていくと、その台地は湿原へと移ろい、快適な一本の木道に迎えられます。
 どこまでもどこまでも白い霧の中に、果てなく果てなく寂しい光景が浮かんでいます。
ここが、山岳高層湿原である「雨竜沼湿原」(うりゅうぬましつげん)です。
大小百数十の池塘が点在し、整備された木道が続いていきます。
秋の群青色をヨコヤマリンドウが、猫じゃらしのようなチシマワレモコウが、池の中にはミツガシワが、枯れ色の湿原景観の中に、小さな命を彩っています。
 湿原では、水たちがじっとたまり、流れに遊び、深くたたずみ、見えない底で何かをささやき、仲良くつながり往き来し、ときに沈み、まさしく湿原というのは「水たちの揺りかご」のように思えます。
 こうして、ただ白い世界の中にいると、気持ちも白く沈殿してきます。
左耳に風の声がします。
・・・・風の歌を聴け・・・そんな気持ちになってきます。
 何だか、心地よくなってきます。
 頂上まで行く気力が以心伝心でなくなっていることを確認しあえるぼくたちは、約900m地点にある展望台から湿原が広がっているだろう空間に何も望めないまま、ゆっくりと休憩をとって、気持ちのまま来た道へと下山しました。
 再び、てくてくと木道に、自分の足音をカタカタと響かせてゆきます。
 湿原からさよならして、沢合いの森の中へと降りていきます。
 行きの車中でデジカメを購入することに一心だったK氏は、すでに魅力的なキノコたちを採ることに今度は心を奪われ、眼を輝かせているのでした。
(2002年9月記)


夕張岳に神宿る

週末、いつものF氏、K氏、S氏、さらにBさんが加わり、夕張岳(ゆうばりだけ1667.8m)へと登ってきました。
ぼくには初めての山であり、その蒼く不思議な蛇紋岩で形成された、高山植物の固有種が多い山です。

 すでに紅葉も終わりのようで、訪れる人も少なく、音静かな山行でありました。
ハラリと落ちる木の葉たち、ギャーと森中を飛び回るミヤマカケス、冷たい沢水たち。
葉を落とした白い幹のダケカンバが余計に寂しさを感じさせます。
前岳湿原も、すでに冬支度をし、リアルな色彩のない冬の匂いのする山行でありました。
やる気のなさそうな曇り空の下に、芦別岳(あしべつだけ)が対峙し、その向こうには十勝連峰の山並みが霞みをたたえて静かに佇んでおりました。

 毎年恒例のように、この時期のK氏は「キノコ採りの眼」になりながらの登山を、リーダーのF氏は、相変わらず装備工夫に余念がなく、いつもの半ズボンでの登山を、今回初めてご一緒したBさんは、新婚旅行でキリマンジャロに登ったと云うほどの山好きで、奥さんに「あんたばっかりいいよね!」と後ろ指をさされてきたかのご様子。
普段、登山をしていない方だというのに、やはり、とても体力や脚力のある方でした。

 登山前日のキャンプのことから振り返ってみます。
夕方に、ヒュッテまで歩き、冷ややかな空気の中にテントを設営して、ビールを一口飲んだところで、S氏が新調したテントのフライシート(雨除け)と防水防塵デジカメを、今日買ってきたんだと、まだ値札をつけたまま携えて、やってきました。
やってきましたというより、のっそりと現れたという感じなのですが・・・

 テントの中というのは、全く不思議なものですね。
仲間がいて、食糧や水、そしてお酒があり、至福な優しさの談笑が続きます。
ロウソクの灯に照らされ、山の話、仲間の話、仕事の話、時事の社会的問題、それはそれは、無限に広がる会話の世界は、楽しいものであります。

 もしかすると宇宙パワーが、あの多角形のテント形状の中には生まれてくるのかも知れません。
 お酒も手伝ってか、普段口数少ない冷静なS氏に神が宿ったのか?、テント内の宇宙パワーのせいなのか?何やら語りはじめます。
「言い伝えとかの中にはナ、オレたちの想像を超えるものがあるんだな。
 例えばナ、かごめかごめの歌、知ってるかい?」
たしか、こんな歌で、よく歌詞を想い出してみると、へんてこりんで意味不明、支離滅裂な歌詞であることに気づきます。

  かごめかごめ  (これは海鳥のカモメのことっしょ?)
  籠の中の鳥は  (うんうん、その鳥がカゴの中にいるのネ!)
   いついつ出やる (出やる、って何だベ?)
   夜明けの晩に  (夜明けの晩って、一体いつ何時のことだベ?)
  鶴と亀と滑った (なんか縁起が良いのかな? なんで滑るのン?)
   後ろの正面だあれ?(うへえ~、気持ち悪くて怖~い・・・)

「滑ったってのはナ、つぅぺった、または、つぅべった、なのかも知れんけどナ。
 つながるとか云う意味らしいナ。
 いずれにしても、かごめってのは、六角形の意味らしいんだよな。
 鶴は天空を、亀は地表を表しているのかも知れないナ」

 余計わからなくなりますが、ぼくたちが頭で認識している今の知識でも解明できない謎はこの地球上にたくさんあって、またこの歌も、そうした時空やら何か昔の人たちの中で誰かが一瞬遭遇した出来事を、今に伝承しているのかも知れませんよね。

 神が宿った?S氏は、他のみんながグースカと寝静まった後も、ぼくに類い希なる興味深い貴重なお話を木訥(ぼくとつ)と静かにしてくれたのでした。
山でもスゴイ神様的な人だけれど、人としても、やっぱり神様なのかも知れないなあ。

「本ってのはナ、人が一生かけて伝えたい作品なんだよな。
 読書はナ、文字の力を借りてナ、オレたちはたった数日でその人の想いとか調べた
 事実、一生なんかを経験できるってことだよナ。
 まして、教科書ってのはナ、過去の人たちが一生かかって見つけた真理や事実をナ、
 今のオレたちに伝えてくれているモンだよな」

「たくさんの人たちが今まで一生を終えてきているということは、それらはどんどんと
 増えてきているってことだべサ?
 オレたち、一人の一生で経験できることなんか知れているべ?
 だから勉強は大切なんだ、読書は大切なんだと云ってくれた学校の先生は、いたかい?
 オレは高校を出てから、それがわかった。
 一週間に1冊の本を読んだとして、一ヶ月で4人分もの一生が経験できるわけだよな。
 オレは、50才を過ぎたけどナ、今でも一年に100冊の本を読んでいるよ」

 

 夕張岳のホントウの神様にも、翌朝、夕張岳山頂直下でぼくたち一行は出逢いました。
冬を前にして夕張岳神社の祠の閉ざされていた扉は、地元の山岳会の方たちの手によってまさに開けられ、掃除や屋根のペンキ塗りなどの作業がされていました。
コースの看板やロープの補修などもされながら登ってきたようです。頭が下がります。

 小さな祠の中には、やはり神様は、キラキラとまあるくいました。
ぼくの姿もそのまあるいキラキラの中に一瞬だけ映りました。
きっと、それらの作業をされている方たちの心にも、神様は宿っているに違いありません。
たいてい東を向いて建てられる神社も、その神社は往年には炭鉱で人々が賑わったであろう、今も地域に根ざし暮らしている、西の方角にある夕張の地域をきちんとしっかりと見守っておりました。

 山に、天空に、地表に、葉のうらに、木の根元に、水の流れに、生き物をつかさどる何かに、そして不完全で謙虚な人の心の中に、神様は、どこかにいるのかも知れませんね。
(2002年10月記)


地球の鼓動を感じた~昭和新山

冬の匂いのする空と処女的なうっすらとした新雪、隣で機嫌悪くも大きく鎮座する有珠山を見上げ、その向こうの外輪山にはウィンザーホテル(旧エイペックスホテル)をヨーロッパの城のように遠く眺めながら、我が足は山腹のあちこち吹き上げる水蒸気から地球の鼓動を感じながら、赤茶けた色をした溶岩ドームの山、昭和新山(407m)へと登る機会に恵まれました。

 この昭和新山は、昭和18年12月に始まった群発地震をきっかけに、昭和19年6月、麦畑から噴煙が上がり、2年にわたる(昭和18年12月~20年9月)火山活動で海抜407mに生成した山です。
学術的にも大変貴重な山として、国の"特別天然記念物"に指定されている山なんです。

 はっ? "特別天然記念物"・・・果たして登っちゃって良いものなんだろうか?
例えばハクチョウを捕まえて食べちゃったり、オオサンショウウオの上に足でまたがったりと似た行為になるのではないのン?(例えば・・・の話ですよ)と感覚的に思います。

 天然記念物は、動物、植物、地質鉱物の中で重要なものが指定され、そのうち特に価値の高いものが特別天然記念物に指定されています。

 また文化財の中でよく耳にする“重要文化財”は、有形文化財のうち重要なものが指定されます。
さらにその中でも特に価値の高いものが“国宝”に指定されています。
この重要文化財と国宝の関係を天然記念物に置き換えた場合、天然記念物が重要文化財、特別天然記念物は国宝に相当するのだそうです。

 特別天然記念物・・・それは、国宝級なのですね。
ぼくは、国宝にまで、この足をかけてしまいました・・・

 さて、この特別天然記念物、昭和新山の素晴らしい陰の栄光は「人」にあるのだと思います。
当時、壮瞥(そうべつ)郵便局長であった三松正夫氏が刻々と上昇する昭和新山の隆起を、軍事的機密とされる中、昭和19年5月から昭和20年9月まで16ヶ月間にわたり個人的な労力で定点スケッチを続けて記録をとり、昭和23年の国際火山学会議で発表した際に絶賛を受けて「ミマツダイヤグラム」と命名されたほどのものなのです。

 一般の方は立ち入り禁止ですので、誤解のないように説明致しますが、今回はその地の所有者の特別のご案内で、有珠山復興対策の業務や地元報道機関の方たちと共にさせていただいた山行であります。
ですから、きちんとヘルメット装着の完全装備でありました。
 貴重な体験でしたから、地学にもとことん疎いぼくですが、かいつまんで見聞したものをご報告します。

・気象庁の観測地点は、北東斜面に温度計差し入れ口、南西斜面に太陽光を利用した震度計がありました。
・噴出口からでている噴煙は、すでに硫黄分もなく、ほとんど水蒸気の状態でした。(やけどします)
・頂上付近には有珠山噴火の際にできた亀裂が南北に走っていました。
・頂上付近には、水晶の結晶粒子が多く、キラキラとしていました。
・一部、白い塊となって石灰の結晶体が観られました。
・特徴的な火山岩デイサイトは、ハンマーで叩くとキンキン響くほど固く、地震が伝わる原理を観ました。
・露出している火山岩の盤には、隆起の際のスクラッチ(引っかき跡)なども残されていました。
・植生は、ヤママハコ、グミやニセアカシアの幼木、クローバーなどもあり、頂上付近にも有機質土壌が
 生成されているようでありました。
・噴出口付近には独特のコケ類が生育していました。
・イワツバメが西斜面に営巣しているようでした。まだ南方へは渡っていませんでした。
・また、エゾタヌキの生息が確認されているそうです。

 洞爺湖(とうやこ)、有珠山(うすざん)、長流川(おさるがわ)など地形生成的な地球の動きを、まさに地に足をつけて体感し、一望できる高度感あるものでありました。
終日にわたって、絶妙で軽快なご解説をしてくださったM様、貴重な機会を与えていただきまして、大変ありがとうございました。
(2002年11月記)


追いかけてペレケ 第一章

予定通り1月1日早朝より"知床"へと山岳会のメンバー総勢4名で行ってきました。

会長(E氏)、N氏、そしていつものFリーダーです。

ペレケとは、知西別岳(1317m)のことです。


 網走の朝6時の気温は、-13度。(気象台発表)
シバれる朝だなあ・・・こんなに例年シバれていただろうか・・・
知床へと向かう国道244号沿いには初日の出のシャッターチャンスを狙う人たちがまばらに車を停車しております。
 上弦のするどい琥珀色の月が、鋭角の斜里岳の右肩、黎明の紫空にと浮かんでいます。
今年の斜里岳は、ずいぶんと積雪が少なそう、、、まだハイマツなども埋まっていないのでしょう、黒々としています。
たぶん使えても北西尾根がギリギリだろう・・・斜里岳も2月の山になったのだなあ・・・
(北海道オホーツク地方での降雪、流氷共に年々少なくなってきている感じが、つくづくします)

 8時前、斜里町ウトロにある知床自然センターに到着。
天候晴れ、気温-6度、風弱し、意外にも温かい。
だけれど、上部は雪と風が吹いているようで、羅臼岳などの主稜線は望めません。
準備をさっと済ませ、山岳会の大先輩であるS夫妻に見送られて、いざ出発。

 冬季閉鎖になっている知床横断道路こと国道334号線には、前日か前々日と思われるトレース(スキーの跡)があり、ふわふわの新雪が15~20cmの心地よいラッセル。
久しぶりに背負う重荷にも次第に身体が合わせてくれてきて、新調したスキーも軽く快適であります。

 冬山とはいえ、頭から汗をかくほどの運動になります。
道路脇のガードロープはそのタイトな張りをゆるめられ、反射標識と共に白い雪に埋もれ、道路を囲む知床の森たちは梢に雪をのせて、日光と影づくりに遊んでおります。

「よいっしょオ」
「ほいっさア」
と、齢60を越える会長は多忙で重労働な豆腐の製造販売のお仕事を「山へのトレーニング」にしているように、まさに元気そのものでラッセル(雪をこぐこと)のトップをゆきます。
「おつかれさん、替わるよ」
約15分ごとにトップを交替してゆきます。

 1時間ほど歩くごとに休憩します。
新雪の上にザックをドサリと下ろし、汗をタオルで拭き、そして紫煙をくゆらせます。
何とも心地よい汗であります。
一年ほどの雑踏生活での垢が落ちてゆくような、そんな洗われる体感であります。

 そして、めざす知床峠や稜線の方角を、乱反射する雪面から眼を細めて眺めてみるのです。

(2003年1月記


追いかけてペレケ 第二章

2回目の休憩後、再び行動を開始したとき、突然、会長は胸が苦しそうになり、立ち止まりトレースから外れました。

「大丈夫だあ、先へ行け!」
両腕のストックにもたれ、息づかいも荒く、顔色もすぐれません。
ひどく胸が締め付けられるようになり、指先が冷えると云うのです。
会長にかつてこんなことはありませんでしたから、気になります。
それでも、N氏とぼくは先へと進みました。その後にFリーダーが続いてきました。

 ぼくたちは、そのまま再出発して間もなく、しばらくと会長を待ちました。
そこは、ゲートから約5kmほども進み、もうすぐで「愛山荘」と呼ばれる小屋がある長い直線の手前まで来た頃でしょうか。
やはり、会長は、体調がすぐれないようなのです。

 4人が揃ったところで、大休憩としました。すでに風も冷たくなってきました。
会長の息づかいも顔色も変わらず、苦しそうでありました。
「オレは下りるから、おまえたちは行け!」
と、会長は云います。
「パーティなんだから、そんなことにはならないっしょ?Eさん(会長のこと)」
と、N氏が云います。
「Eさんバ、独りで下山させるなんて、できないっしょ」
と、ぼくも云います。
 しばらく、雪煙のたなびく尾根などを眺めて、時間をやり過ごしました。

『下りよう』
と、Fリーダーの即断の声が、力強くもあり、いつものようでもあり、発せられました。
「下りていて調子が戻ったら、ゲートにテントを張って正月をしようやあ」
と、Fリーダーは、会長のスキーのシール(登るため必要な装備)を陽気に外してしまいました。
今思えば、そうでもしなければ、会長も未練が残っていたのかも知れません。
 
「札幌や岩見沢から来ているのに、すまないなあ。。。」
会長は、ポツンと申し訳なさそうに云います。
「なんも、なんもっしょ」
と、ぼくたちは明るく振る舞います。

 そして、ぼくたちは、正月山行"ペレケ"を下山したのでした。
遠くオンネの切り立った三角形の頂が陽光に雪煙をたなびかせ、知床のオホーツク海は優しい緑色をしている元旦の午後の時間でありました。

 会長は、翌2日、診察を受け投薬治療を始めておりますので、ご心配のありませんように-。


遊びについて

「遊び」と書くと、あまり良いイメージは持たれないかも知れませんが、これほど無心にまた自分を感じられるものもないのかも知れませんよね。
それほど、「遊び」は、その人を生かすものなのだとも思います。
人に流れる「ただある時間の中」で。
もちろんそれらは、本当に贅沢な巡り合わせ、身の回りの社会生活的な環境のおかげなのだと感謝しています。
 本当に「遊び」とは、何でしょうね?
「おもしろそう」、「楽しそう」という直感を基本にした「やってみたいっ!」と思う心の衝動みたいなものですかね。
もちろん、それには、社会的に通用する正当な理由などありませんよね。
「なぜ?」と訊かれても、ご質問に耐えうる明確な答えは、なかなか見あたりませんものね。

 一人ひとりの性格、感性、体力、気持ちなど全てが関係しあって「遊びたい」という欲求を起こさせるのですから、その内容や遊び方などは必然的に自分自身そのものの個性が表現された唯一の素晴らしい世界なのですよね、「遊び」は。
まさに、人の生き様のひとつの表れとも云えるものですよね。

 それはとても主観的な世界ですから、だからこそそれらが互いにぶつかり合い、他人との違いや自然を相手に思い通りにイカナイことを思い知らされて、憧れ、傷つき、人間関係や自分との葛藤の機微さ、自然への畏敬の念を覚えてゆくものなのかも知れません。

 自己実現的にも自らの限界や夢にチャレンジしたいという欲求を包んでいるので、必然的にときにリスク(危険)を伴うこともあるのだと思います。
だからこそ、ぼくたちは遊びに熱中する中で、常に五感を働かせて、感性、観察力や洞察力、自己防衛能力を高めていくことができるのかも知れません。
ぼくの(軟弱な)登山も、そうだと思います。

 そして「遊び」はプロセス(過程)そのものの中に存在するので「できる」、「できない」という価値基準それ自体が、あんまり意味をなさないものかも知れませんね。

 その状況に応じて目的ややり方を即座に変えられるからこそ「遊び」には喜びがあるのであって、やり方は一つではない事、気をとり直すこと、その時々に必要とされる状況判断の能力などが培われていく、その過程と成長と、そこからつながる次の希望を楽しめるものですものね。

 自らの「やってみたい」という欲求が根底にある限り、失敗も成功も、迷いも成就感も、そして痛みも達成感も、すべてが過程として、自身の心に残るものですものね。

 こうした「遊び」の世界の中で自分自身を知り、自分を生かす方法や自分を守る業を身に付けてゆく。
「遊び」を通じてのさまざまな体験は、喜怒哀楽を伴いつつ命のきらめきと同時に、心の闇や移ろいもまた、つくづくと見つめさせてくれるものですよね。
そして、根底にある「やってみたい」という思いが一つひとつの壁を乗り越えるエネルギーを生み出してくれますよね。

 「遊び」を通じてこそ知り得る命への実感は自分の命の尊厳ばかりではなく、他人や自然への認め得る力となって、自らを生かし守る業は他人や自然をも生かし守る業へと通じていく人として素晴らしいチカラを与えてくれるものなのかも知れませんね。

 まさに「遊び」こそ自分が生き、他人を生かし、他者や自然と共に生きていく力の源なのかも知れません。
こうして書くと「遊び」とは、なんて生きる上で高尚なものなのでしょうね。

「遊び」。
それは子どもの頃、誰もが持っていた、明日を生きてゆく可能性の、限りない残光の一つなのかも知れません。

(2003年4月記)


人生の詩人~Tさんのこと

「この子は賢いわねえ、ちゃんと人の話を、眼を丸くして聞いているものねえ」
と、愛猫の"ちゃちゃ"は抱っこされながら、そんなことをその方に温かく云われていた。

 その方とは、このメルマガから知り合ったメル友の方で、大の"ちゃちゃ"ファン、Tさんである。
Tさんは、ぼくのメル友の中では最高齢、75才の方だ。
お歳から云えば、"おばあちゃん"とお呼びしても、良いのかも知れない。

 そんなTさんから初めてのメールが届いたのは、昨秋のことだった。

 札幌からの便りお楽しみにしている まだパソコン初めて半年になる75歳です
 早くに死別して主人わ札幌の地で眠っています あまりにも思い出が多くて
 東京、名古屋と唯ひたすら生きてきた人生の終わりを向かえ爽やかな便りに触れ
 写真を眺めて懐かしさでいつぱいです 有難う御座いました
 美人の猫ちやんによろしくお礼まで        名古屋にて

 それから、Tさんは、いつも季節のことや「ちゃちゃわ元気にしていますか」と、"ちゃちゃ"のことを心配して綴ってきてくださる。

 初夏の新千歳空港に一人降り立つTさんと、世間知らずな若造のぼくはどんな会話をしたら良いのだろう、と、ぼんやり思っていた。
縁とゆかりのある北海道にゆっくり旅行をしたい、ぜひとも東藻琴村の芝桜を見たいと、この冬から話が弾んでいた成果の瞬間なのに、少しだけ、ぼくは緊張していた。

 それでも、初対面のTさんを笑顔の会話で迎えられたのは、空港へ行く前に翌週の仕事の下調べで、由仁町にある施設公園の芝生の緑と風と、エゾハルゼミたちの合唱に包まれ、のんびりと過ごせたからなのかも知れない。

 お迎えしたTさんは驚くほど上品で、とてもお若い方だった。
たくさんの経営や若い人たちと過ごしてきているからなのかも知れないけれど、落ち着いた身のこなしと、新調したばかりだと云う「カメラ付き携帯電話」を持っていたりするのだから、少し不思議なのだ。
Tさんにとっては、ぼくの見た目の細さが驚きの第一印象だったようだ。

 それから、Tさんがずっと会い焦がれていた猫の"ちゃちゃ"とご対面していただいた。
赤ちゃんに注ぐような眼差しをたたえ、"ちゃちゃ"を抱っこできたTさんは、満足そうに、何回も、何回も話しかけては、"ちゃちゃ"の毛並みの感触を感じてくれていた。
"ちゃちゃ"もピヨピヨと鳴く小鳥そっくりの"おもちゃ"をいただいてご機嫌な愛想だ。
TVでは、「YOSAKOIソーラン祭り」最終日フィナーレの熱気が中継されていた。

 Tさんと市内のホテルのレストランで夕食を共にした。
「お飲物は何になさります? わたしの主人は日本酒が好きな人でしたねえ」
「これは何というお魚ですかねえ、いつもあなたが釣っているお魚ですかねえ」
と、お皿の上の姫鱒(ヒメマス)を指さしてくださった。ぼくは手を左右に揺らした。

 静かな時間と空間の中で、まるですべてが落ち着いた詩のような流れる会話をした。
「お姑さんはねえ、いつも、和服を着ている人でねえ、私は昔、よく怒られましたわよ」
「ちゃちゃは、どうしてあんなにまあるい眼なのかしらねえ、かしこい子だわねえ」
ぼくたちは木訥(ぼくとつ)としながら、時代を感じさせない、いろいろな会話をした。

 きらびやかな世界で活躍されてきているだろうTさんから観ると、ぼくは素朴なのだろう。
「あなたは、ちゃあんと故郷があって、そこで生きていけることは、素晴らしいわねえ」
「都会の人は疲れていますわよ、あなたの表現は癒し系ですわねえ」
ぼくは、欲や煩悩もあることを、この札幌でもひどく疲れることを、内心恥ずかしく思った。

 ぼくは、チャカチャカ(ガチャ・・・)と慣れないナイフとフォークを動かしていた。
生まれて初めて"フォアグラ"というものを、ぎこちなくフォークで口にした。
「もう少し太ったらねえ、落ち着いていろんな世界が見えるから、2~3年の辛抱だわねえ」
と、ぼくはTさんに何だか励ましていただいた。眼には微笑みをいただいた。

 この札幌に再び戻ってこようかしらねえ、そうしてみようかしらねえ、と、ご自身に言い聞かせるように、幾度とぼくに告げてくれていた。
そして、別れ際に振り向くと、夜の落ち着いたホテルのロビーで、Tさんの眼にキラリと光るものを、見たような気がしたのだった。


 Tさんの今までの人生は、故郷を待つ人生だった。
そう、思う。それも悪くないと。

 Tさんは、これからもぼくが想像できない都会の、きらびやかなファッションと社交の場の世界で活躍し、生きてゆかれるのだろう。
全く詩を書かないかもしれないし、感じたことを文章、写真や絵にしたりしないかもしれない。

 しかし、そのTさんは、きっと、もう人生の詩人なのだと思う。
詩を形にしない詩人。
そんなTさんのような人生の詩人が、この世界には豊かに溢れているのだと思うのです。
(2003年6月記)


旅にでる木

わたしたちが生まれたのは、100年、
いえ、もっと前のむかしのことです。

みなさんは生まれていましたか?

原生林の中で、ちょっと陽のあたるところができて、
わたしたちは、
兄妹なかまたちと芽を出して、そだってきました。

子どものころは、あまりえいようはありませんでした
ササさんたちと、
たくさんきょうそうをしました
ふかいゆきにもつぶさそうになりました。

わたしたちの下1キロくらいのところまで、
兄妹なかまたちは切られて、

よそからの木さんたちが、
せきたんをほるための人たちの役にたつために、
たくさんと、
たくさんとやってきて
うえられました。

どうしたら、がいこくやよそからきた木さんたちが、
わたしたちのそばでそだつのか、
じっけんされるもりもできました。

わたしたちのいるところは、台風やたくさんの雪で、
つぎつぎと兄妹なかまたちは
死んでゆき、
土になり、
わたしたちのえいようになってくれました。




8ねん前、わたしたちのそばに
大きな駐車場がつくられることになるときいて、

わたしたちは切られてしまうのではないか?と、
とても、
とてもしんぱいになりました。

でも、ちょうど、年おいたわたしたちのそばで、
駐車場のこうじは終わりました。

人たちはそうだんして、
わたしたちを、のこしてくれたのです。



わたしたちはおじいちゃんおばあちゃんですから、
えだなどは切られました。

それから、わたしたちは、見たこともないたくさんの
人や車たちをみました。

生まれたころにはみたこともない、
でんきやバスを見ました。

生まれたころのように、わたしたちには、
こんどは人から陽があたりました。



むかしから、いつもクマゲラさんなどが
遊びにきてくれます。

わたしたちをつかって、ツリーイングを
楽しむ人たちもいます。

わたしたちは、はじめて、
人の手のぬくもりをかんじます。

まいにち、たくさんの人のえがおも見えます。



でも、そろそろ、
わたしたちのいのちのおわりも
ちかいようです
たくさんの はをしげらせていたころが
とても
なつかしいです。

がんばって上をむいて、
たえてきましたが、
もう、たおれそうなのです。

わたしたちが、たおれると、
人たちのえがおが
いっしゅんにして、
なくなってしまいます
たいへんなめに
あってしまいます。

わたしたちは、
つぎの子どもたちの土のえいようにはならずに、
人たちのめいわくにならないように、
ばらばらになって、
この山からはなれます。

4ねん前にも、同じように
おにいさんとおねえさんも、
ばらばらになって、
山をはなれました。

どうか、
いまのわたしたちのすがたを、
おぼえていてください。


このしゃしんは、いま、わたしたちが、お月見をしているところです

ほんとうは、
わたしたちは、もう、生木としては死んでいます。

いままで、おはなししたことは、
おとうさんにも、おかあさんにも
おともだちにも
ないしょにしていてください

そして、かなしまないでください

わたしたちにとっては、
100回いじょうの
きびしい、
さむい
冬をこえて

これから

はじめての
旅にでるきぶんなのですから。

(2011年9月記)


百名山・斜里岳に棲む

いってらっしゃい!
今朝も元気な登山者たちが、鈴の音をたてて、元気よく出発してゆきます。

親元を旅立ってから、初めての単独登山をしたのが、この斜里岳でありました。
暮らし始めた網走からとても美しい姿に見え、あこがれて、18才のまだ少年のぼくは、歩いて向かったのです。
それを機に、冬山登山も始めた初めての神々しい冬山の頂を4日間かけて、慣れない山スキーで同じく登ったのも、受け入れてくれたのも斜里岳でありました。
それから冬季積雪期には、集中的に未登のルートを開拓登攀してきました。

やがて、精鋭的な登山スタイルから離れ、いつか定年する頃には、この山の麓にでも棲みたいなあ、などと、ぼんやり思っていたのもつかの間、登山路地図とは違い、人生とは不思議な地図で、20年早く、その山中に棲む地点につながりました。
そんな標識はなかったと思うのですが・・・

棲むと云っても、ありがたくも立派な山小屋施設です。
内外の生水は飲めません。お風呂はありません。単身自炊です。
この山は、深田久弥氏が選んだ日本百名山のひとつであり、夏季だけでも6,000人以上もの登山客が、全国から賑やかに訪れるのであります。

山小屋前の登山口の原生林からは野鳥たちのさえずり、清涼な沢を登り、大小幾多の滝を超え、ぐんぐん高度をかせいでゆくと、開拓された斜網地方の平野や摩周方面、そして国後の島まで望め、ハイマツの中、寝ころんで、心地良い風と咲き乱れる高山植物の花たちが汗と疲れを癒してくれるのです。

孤高なる独立峰らしい斜里岳。
風は夏は尾根を鳴らし、冬は尾根を唸らせます。
雨天や吹雪の日には、乳白色で真っ白な魔の世界です。
晴天の日には純白な雪と共に、その鋭利な輝く頂たちを天空へ持ち上げます。
この山が天と地と仲良く厳しい気象であるからこそ、日本を代表する清流・斜里川も、各名水なども育まれているのです。

この山には、夏山開きの安全祈願祭とは別に、地域の人たちによる神様が山麓から頂上まで形づくられています。

この山ができたのは、約28万年前の火山活動なのですが、人との営みを共にしている山は、ぼくは好きです。
いつ頃からなのか、高校生の頃から登山を始めて、山での祠や神社などを意識するようになったのは・・・

夕張岳や利尻岳頂上での、地域の人たちによる熱心な動きも見てきました。
母なる藻琴山頂にもあった祠もなくなり、そのルーツを探ってもいました。

この山は、斜里コタンのアイヌたちからは、オンネヌプリ(年老いた山)と敬愛されてきました。
初登頂の記録は、北海道開拓に来日したライマン(地質学)、1871(明治4)年。
探検家・松浦武四郎も、2回目の遠征時1845(弘化2)年に、斜里岳を海岸地帯から眺めた光景を次のように詠んでいます。

 斜里岳やましう嵐の吹きかえて
 稲の穂波のはやたてよかし

開拓農家さんたちの闘いの支えや雨乞いの頂でもありました。
皆既日食の際、世界中の天文学者たちが観測をした地でもあります。
その際につくられた建造物の一部残骸は、沢の下二股などにも見られます。

一つの山麓地域の方たちも、次のように残しています。
(江南開拓史 昭和46年刊より抜粋)
 江南部落の東南にそびえる斜里岳は、海抜一五四五メートル、
 その孤立した山岳の典型的な山容は、登山者ばかりではなく、
 釧網線を通る旅人にも深い愛情をもってくる、わが江南の表徴であり
 崇敬の的である。
 朝夕に仰ぎて ここに五十年
 斜里の高嶺の姿 尊し

その地域の学校も閉校となりましたが、往年には木材を供給し、原野を切り拓いた跡地は今では豊かな平野となって、林業から環境の時代になりつつある中で、その山容は道東のマッターホルンの名に恥じない東オホーツク地方のシンボル、秀峰として、見て良し、登って良しの山として、いまでも斜里岳は人々に愛され続け、水の恵みを与えてくれています。

その当地や神様に、ぼくは、ようやく若い人生の歩みの中で受け入れられたのでしょうか。
山との縁と云うのは、本当に不思議なものです。

今夕も、安全に楽しく下山してきた登山者の鈴の音の数をかぞえて、1日が終わります。

 山は どーんとそびえ
 時折 聞こえる登山者の鈴の音
 皆がルールを守り
 楽しいときを

お疲れ様でした!、おかえりなさい!

この地を、きよらかな里、清里と呼びます。
この地点を、きよらかな山の小屋、清岳荘と呼びます。

 (2011年9月記)


アマガエルの思い出

ボクの記憶が正しければ、そう、それは小学3年生の頃のお話。
故郷には福島地区という子どもの自転車で小1時間ほどのところがありました。
そこには同級生のコーイチくんが暮らしていました。
初夏のある日、
「おかあさんがカエルを捕まえてくれたんだ、ヒデキちゃんおいでよ」
と、教室での休み時間に声をかけてくれました。
早速、その日の放課後に自転車で向かいました。
コーイチくんのおかあさんがビニル袋に入れてくれていたのは、子どもの手のひらほどの大きなアマガエル一匹。
はじめて見るアマガエルでした。それをくれました、とてもうれしかったです。
どこにいたのですかと尋ねると、サイロの中にいたらしいのです。
それを自転車でゆらゆらぶらさげて持ち帰り、水槽へと入れました。
後日、飼育エサは何だろうとコーイチくんと図書室の生き物飼育図鑑で調べてみたら「ミールワーム」ということがわかり、そのタイトルの本を借りました。
しかし、それは「ルノワール」の本で、ちんぷんかんぷんな絵画の本でした。
いまにして思えば、厳しい開拓農業の傍ら、“子どもの友情のためにカエルなんかを捕まえておく”ということが、いかに尊い親の愛情であることかと思わされるのです。
当地は、名前のとおり福島県からの入植地区、その後もボクはコーイチくんのもとへ何回通ったかわかりません。
春の池にはサンショウウオやアカガエルたちもいたし、夏にはたくさんのバッタたちを追いかけ、小沢でニホンザリガニを捕まえ、大きなヘビにも遭遇して2人で駆け逃げたりもしました。
昭和50年代、裸電球、出荷にはミルク缶を使い、お店に買い物もなかなか行けずに移動販売車、少ない乳牛を最期まで看取り、防風林そばに穴を掘って埋葬する、まだ農耕馬もいた、北の辺地ではそんな時代。
寒冷地では稲作の水田はできず、なのでアマガエルは貴重だったわけで、開拓農家さんたちが沢沿いの地を求めたには生活上からのごく当たり前な理由。
大人になってその地区をクルマで訪れてみると、アスファルト道路に整備もされ、その側溝付近にあった池も沢も森もなくなってしまい、もうカエルたちなどの姿はなくなっていました。
それぞれ別々の高校に進学してしまったコーイチくんは、いま、どこでどうしているのでしょう。
ボクのことやカエルのことなど忘れているかも知れません。
九州で気軽にアマガエルを見るたびに、コーイチくんとの生き物を通じて育んだ幼き友情と、優しいおかあさんの原野の開拓に日焼けした笑顔と愛情を思い出すのです。
(2014年5月記)


めだかのおしくらまんじゅう

「さむくて、じっとしているのに、やめろよう!」
わさわさ。
飼い主が、ベランダにあるめだか箱の水槽たちを突然いじりはじめました。
「うわーん、さむいよう、追いかけないでくれよう」
ちゃぷちゃぷ。
ざぶんざぶん。
やがて、3つあった箱は、水合わせの儀式をおえ、大きなひとつの箱にまとめられました。
「あんさんは、どこから?」
「おいらは、エアコン室外機の上の箱からだよ、ほら、あそこ、見えるだろ」
「ねえさんは、どこから?」
「あたしは、あっちの上からよ、せまくて、あまり日射しが当たらなかったわ」
どぼんどぼん。
「あー、これはこれは、大親分、ご無事で?」
「ああ、すっかり全滅したと思われていた下の汚れた産卵箱からだよ、ほれ、ほかの奴らも健在だ、10月頃からえさがもらえなくて苦労したぜ、これでようやく生還できたわけだ」
ゆうゆう。
すいすい。
そうして、3つの箱から、およそ30匹のめだかたちが集まりました。
飼い主がスーパーからもらってきた発泡スチロール二段構えの立派なお家です。
水温と同じなのでしょう、体温7℃、平熱とでも申しましょうか。
ただ、さむいから、泳ぐときはジグザグです。
きゅーきゅーパコン。
屋根のフタも二重にあるので、さあ、これでひゅうひゅう雪が降っても、ぎんぎん氷点下になっても大丈夫でしょう。
「なあ、これ、まるで2×4(ツーバイフォー)じゃないかね」
誰かが笑って言いました。
「やれやれ、こんなに集まったんじゃ、これから冷えるときには底の方で、じっと、みんなで、おしくらまんじゅうをしよう」
「そうだね、そうしよう、そうしよう」
みんながそう言いました。
きらりと水面が光りました。
2×4屋根付きめだかたちの冬が静かに始まりだしました。
ぼくらの飼い主は、
心配性で、あわてんぼうです。

(2017年12月記)