北辺の労働史

北海道での囚人労働は道路開削や、炭鉱や硫黄採取などが各地で行われ、そのたびに多数の犠牲者を出していました。
「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」
と、国会で追及されるに及び、ついに明治27年廃止されました。

しかし、この囚人労働の歴史はその後も『タコ部屋労働』に引き継がれ、内地(本州など)で食いつめた労働者や外国人を巻き込み大正、昭和へと押し進められるのです。

当地で何が行われていたか、今でもみな沈黙を通します。
そして真実を知る方も亡くなってゆきます。
時代時代で誰しもがしあわせを求めて懸命に生きてきましたが、今から見ると、命として、人権として悲惨な史実があることも事実です。

このような歴史観を持った上で、地域振興や観光施策を正しく認識して行うことが大切だと思っています。

今日の北海道の基盤や繁栄は尊い犠牲の命の上になりたっていることを、どうか忘れないでください。

参考資料:「建設業における労使関係制度」筆宝康之教授より

副読本

小学校3~4年生が使う社会科読本『わたしたちのきょうど』(室蘭市教育委員会編、1974年刊)では、タコについて次のように記述してされてます。


「……明治27年になって政府は囚人の労働があまりにもひどいことがわかって、とうとう、この制度をやめてしまいました。お墓をたてられなかったこの人たちは、北海道の開拓の土台になったのです。 
 北海道の道ろと、鉄道や炭坑や港などの地下に今もねむっていることでしょう。
 やがて、このような囚人たちのことを、もう一度、深く考えてみようと調査や研究がはじまり、また、心ある人たちは、『いれい碑』と『共同墓地』などをつくって、くようすることになりました。
 囚人労働はやっとの思いでやめることになりましたが、今度は土工夫たちを使って、ふたたび開拓がすすめられることになりました。(中略)
 土工夫の親方は工事を請け負うと、その現場に『土工部屋』をつくり、数十人、あるいは百人以上もの人々を集めてきました。このような土工部屋は北海道に何百もありました。 
 土工夫の多くは、まずしい人たちでしたので、親方に借金をしていました。
 かりたお金を返すために一生懸命働くのですが、どうしてもお金を返せない仕組みになっていました。
 土工夫たちは、朝は3時半にたたきおこされ、夜は7時まで休みなく働かされました。
 食事は1日に4回、立ったまま食べるのです。米1分、麦9分、生味噌と少しのなっぱ、時々うすい塩マスのきれはしがつくだけでした。
 休みの日もなく夜は土工部屋にカギをかけられ、ぼう頭がいつも見はっていました。
 こんなにつらい仕事でも1日働いてわずか1円30せん、その中から、毎日、食事代に70せんひかれました。
 ちかたび1足1円30せん、これも3日ぐらいでぼろぼろになりました。
 土工夫たちは、つらい現場からのがれようと、5人にひとりは、こっそりにげたのですが、道路や橋、山や海岸には、みはりがれんらくしあって、つれもどされるか、そのばでころされたということです」