網走刑務所と中央道路

ぼくたちは今、

「北海道の道路は、広くて、ドライブには快適」

と、当たり前に思っていますよね。

特に本州などから来られた観光客の皆さん方は、そう思われるのではないでしょうか?
空港などからレンタカーを借りて広い北海道の道路を安全運転するのは、とても気分の良いものかと思います。

北海道は、明治維新以前は蝦夷地と呼ばれ、アイヌの人々が自然と共存し、自由に悠々と暮らしている広大な原始性溢れる、昼なお暗い鬱蒼とした森の大地でした。

江戸時代には和人の定住が始まるのですが、本格的に開拓されるようになったのは、明治維新後に蝦夷地が北海道と名を改められ、開拓使が置かれるようになってからです。

その後、アイヌ民族に対する旧土人保護法(明治32年3月2日法律第27 号)が施行されました。

 

開国したばかりの日本は、欧米諸国に対抗しようと富国強兵政策を強くとっていました。
そして、国の経済を発展させるには、未開の地だった北海道の開拓が必要不可欠と考えられたのです。
さらに、南下政策をとる帝政ロシアの脅威から日本を守るための軍事拠点等としても、北海道は重要な北方防備の場所として位置づけられていました。

しかし、当時の日本の財政には北海道を大規模に開拓する余裕はなく、そこで考え出されたのが、囚人たちを「北海道開拓の労働力」として使うことでした。
幕藩体制が天皇制に移行した明治の初め、佐賀の乱や西南の役などの反乱が続き、その際に検挙されたいわゆる国賊と呼ばれる政治犯、思想犯とされた自由民権派の思想家、荒れた世相の中で罪を犯す人々たちで、本州(内地)の監獄には囚人たちが、当時、溢れかえっていたからのようです。

その解決策として、当時の内務卿だった伊藤博文は明治12年に太政大臣に提出した伺書の中で、こう述べたと云われています。
「北海道は未開で、しかも広大なところだから、重罪犯をここに島流しにして、その労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えて解放された者は、ここにそのまま永住させればいい」
こうして、明治12年、道内最初の監獄である樺戸集治監が、現在の空知管内月形町に作られました。
その後、明治14年に空知集治監、明治18年に釧路集治監が作られ、道内に囚人が集められました。

開拓の第一歩は、人や物資を運ぶための道路を整備することでした。


明治23年、網走刑務所の前身となる"網走囚徒外役所"が作られたのも、札幌-旭川-網走を結ぶ中央道路の開削工事に囚人たちを動員するためでありました。

これが網走刑務所の発端になります。

 

当時の網走は、夏には漁場が開かれていましたが、冬は厳しい寒さと流氷に閉ざされる海沿いの人口600人ほどの小さな集落でした。

そこに突如として1300余名もの囚人たちが送り込まれたのです。

明治24年、「中央道路」の開削工事が開始されます。
その経路は、網走市から網走湖西岸をとおり北見市端野地区~北見市街~北見市留辺蘂地区~佐呂間町~旧生田原町~遠軽町~旧丸瀬布町~旧白滝村~北見峠~旭川までを担う、約220kmの区間でした。

網走~北見市端野緋牛内間は道道104号線、緋牛内~北見~留辺蘂区間は国道39号線、留辺蘂地区~佐呂間町花園間は道道103号線、旧生田原町~北見峠までは国道333号が、ほぼ当時の通行経路となっており、現在でも道路利用されています。

その仕事量は、当時の道路工事スピードの、実に4倍を超える厳しい、全て手作業だったと云います。それも1年以内に完成させよ、との達しでした。
手付かずの原生林と原野を切り開く工事は、険しい地形や熊、寒さと食糧栄養不足との闘いでもありました。


 逃亡を防止するために、囚人たちには2人一組で鉄鎖と重い鉄球がつながれていました。

そして、昼夜を問わない突貫工事は酷使につぐ酷使で、不眠不休の強制労役が続けられ、過度の労役と病などに倒れて死者200名以上にも及び、路傍に埋葬されましたが墓標は風雪に消え去り、今になっては埋葬場所はほとんどが不明になりました。


死因は過労と栄養失調のほかに「拒捕斬殺」でした。抵抗または逃走を図った者は、斬殺しても良いという権限を看守が行使し、殺された囚人は「見せしめ」に鎖をつけたまま埋められたと云うのです。

当時の北海道では、他の各地でも炭鉱や硫黄の採取など、危険な場所で囚人労働が行われていましたが、この中央道路工事ほど数多くの犠牲者が出た現場はないと今でも云い伝えられています。
これが、今でも「中央道路は囚人道路である」と云われる由縁です。
囚人たちは命がけで未開の原生林をわずか約8ヶ月で切り開き、現在の網走の布石となる道路を作ったのです。

 

 「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」

と、国会で追及されるに及び、ついに明治27年廃止されたのです。

◇中央道路関係各地の慰霊碑等

 鎖塚供養碑・六地蔵 1976.10(北見市端野)
 中央道路開削犠牲者慰霊碑 1996.7(北見市)
 中央道路開拓犠牲者慰霊之碑 1985.11(北見市留辺蘂)
 中央道路犠牲者之墓 1985.11(北見市留辺蘂)
 菩薩像 1986.5(北見市留辺蘂)
 太子堂 1915.3(遠軽町生田原)
 山の神の碑 1905(遠軽町)
 国道開削殉難慰霊之碑 1976.9(遠軽町)
 中央道路開削殉難者慰霊の碑 1974.8(遠軽町白滝)

 

慰霊碑の一つ、鎖塚供養碑

(2007年5月撮影)


博物館網走監獄

なぜ、網走に刑務所が作られたのか? その刑務所内での行刑や生活形態の変遷は?

「北海道開拓と監獄受刑者」をテーマとした名勝天都山麓に位置する屋外歴史博物館。