かみゆうべつチューリップ公園

5月に咲く北国のチューリップたち、その種数と景観は圧巻です。


Location

見頃:5月~6月上旬

入園料:あり

トイレ:あり

 


Impressions

チューリップの生まれ故郷は、中央アジアから小アジアにかけて(北緯40度付近~中国西南部からイラン・トルコ・スペイン等地中海地方)と言われていますが、ヨーロッパへは16世紀の後半に初めて紹介されました。


チューリップの属名「チューリパム」の由来はトルコ語の「ツルバン」で、この意味は頭に巻くターバンです。花の形がターバンに似ているためと言われています。何でも、植物学者のブスベックが通訳の「ターバンに似ている」と言ったのを聞き間違えたためだとか。
1634年から3年間は有名な「チューリップ狂時代」と呼ばれており、ヨーロッパ経済全体が大混乱になりましたが、結果的にこの加熱が品種改良を促し多くの新品種が生まれました。当時、高値がついた絞り模様は後にモザイク病の現象であることが判明します。この背景から18世紀のヨーロッパの花の絵はこの様なチューリップが多くあります。

日本に紹介されたのは江戸時代末期(1863年フランスから輸入)ですが、球根の生産がされたのは大正時代(最初は横浜・千葉、本格的栽培は第二次世界大戦後に新潟・富山)からです。

 屯田兵により拓かれた街である背景として、国防と開墾を担う屯田兵には面積4.4ヘクタールの土地が無償提供されており農地として継承されていたのですが、この決して広くない面積から北海道で農業経営するのは厳しい状況でした。
この状況を踏まえ、昭和32年、当時の農業改良普及所長・西川照憲さんが研究を重ねた末、「少ない面積の農家の収入を増やすには高収益であるアスパラガスとチューリップが有望」と呼びかけ指導しました。同年春に町内の54戸の農家がチューリップ耕作組合を結成、オランダからチューリップの球根22種類6万500球を輸入し、「チューリップで夢を見よう!」を合い言葉に外貨獲得の大きな期待を担って栽培が開始されました。

その後、組合員の熱心な栽培努力によって昭和35年にはバンクーバー・シアトル・ サンフランシスコに初輸出され、昭和35年には生産量(33万球)・輸出量共に北海道一となり、昭和40年には22万球を輸出するようになりました。

 しかし、ようやく軌道に乗りチューリップの栽培も順調に伸びていくものと思われた矢先、昭和41年にオランダの球根が世界市場で値下げされたため日本からの輸出が困難を極めるものとなりました。急きょ、国内の消費拡大に努めましたが、当時はまだ花を楽しむような社会情勢ではなかったため、生産農家が一戸一戸と減っていき年々衰退していきました。チューリップ栽培の夢が志半ばで消えかかったのですが、それでも生産農家たちはチューリップへの深い愛着から畑の片隅や自宅の庭に植え続けました。そして、「かつて町の農業に活気をもたらしたチューリップを後生に残そう」と昭和51年、旧上湧別町は「町の花」に指定されることになりました。

 チューリップ栽培の衰退後、深い愛着から生産農家の片隅で栽培されてきたチューリップですが、「後生に残そう」という強い思いを実行に移したのが、定年退職後の西川さんの指導を受けた旧上湧別町老人クラブ連合会でした。 昭和50年、現在のチューリップ公園(かつて屯田兵の集会場と訓練場なっていた)の場所に「老人農園」として、当初2アールの小規模な面積に植付けを行い、その後、30アールまで拡大されるまでになりました。
ただ単に自分たちが楽しむため、チューリップを残したいために農園で栽培されてきたチューリップでしたが、国道沿いに広がるチューリップ畑は、車で通過する町外の人たちから注目され、毎年春には、自然に人々が集まるようになっていました。

 この現象に着目し、本格的に町花としてのチューリップを町のシンボルにしようと農園整備の着手が始りました。昭和60年に作付け面積を拡大し「チューリップ園」と改名。昭和62年には町の観光開発事業として展望台を兼ねた「オランダ風車型管理棟」を建設し100台収容の駐車場と約3ヘクタールの畑を整備、「1987チューリップフェア」が初開催。昭和63年4月1日に正式に町立の「チューリップ公園」として指定しました。その後、レストラン「チューリップ館」や物販店舗、球根乾燥貯蔵施設、公園内道路の整備など、年々公園の拡張と整備に努めております。
現在、公園の総面積は12.5ヘクタール、このうち約7ヘクタールの畑に120品種120万本のチューリップを植栽し、毎年新品種を導入しながら植付け配置を調整しており、特に平成10年度からはチューリップの本場オランダから珍しい球根を直輸入しています。

(市町村合併前の上湧別町チューリップ公園サイトより引用)