小池先生著による上記作品は、以下サーバーに転写されておりますので、ご覧ください。
http://web.archive.org/web/20090819153709/homepage.mac.com/mkawai11/engaru/osusume/joumon/main.htm
本一冊分がありますが、読まれた方は、こんな強制労働が北辺にあったのかと驚き、涙があふれるかも知れません。
JR石北本線の生田原駅と金華駅のあいだには、「常紋トンネル」と呼ばれる開削工事に悲惨な犠牲があった難所があります。
大正元年、工事着工。
大正3年に完成した507mの金華峠のトンネルです。
ここはタコ部屋労働の人たちによって作られたトンネル、鉄路です。
北海道開拓における囚人の強制労働から引き継いだ労働体質を「タコ部屋労働」と呼びます。
いちばん難しいところは、出生地や氏名、つまり身元がわからない人たち、そしてさらに人数さえもわからないことがあることです。
なによりもその体質そのものが、人権や尊厳を侵害していることでありました。
土工部屋に集められ、監禁や暴行を受け、強制労働をさせられ、多くの方が命を落としました。
労働人口が少ない北海道でした。しかし、もう囚人の人たちは労働に使えません。
「北海道で働けばもうかる」と本州(内地)からの募集 (悪徳仲介屋や職業斡旋者のようなものにダマされて)によって東京・大阪などの都市部に来た地方の若者や家出人、失業者、書生のような青年たちなどが、次々と集められました。
また、戦争中には国内の労働力の不足により、中国人や朝鮮人が強制連行され、大企業の下の工事請負業者による、この土工部屋「タコ部屋」に同じく入れられます。
外国人であるためにタコ以上に差別され、悲惨な死をとげています。
彼ら労務者は北海道鉄道史上、もっとも過酷で、悲惨な労働現場「常紋トンネル」や空知地方の炭鉱などの鉱山、道路や橋梁、港湾や河川、鉄道などの各作業現場において、「棒頭」と呼ばれた監督によって監禁監視され、重労働、厳寒、粗食による栄養失調や水腫病などにかかっても働かされました。
働けなくなった労務者への治療もなく、逃げてつかまったら、見せしめにリンチをうける。
死んだら線路脇の穴へ次々と投げ入れられる。
セメント壁に埋められ人柱にもされる。
これは囚人労働の経験から生み出されたものだと云われています。
そのためタコ部屋は、「監獄部屋」とも呼ばれました。
その体質は、雇い主への借金(不当なものや、サギまがいのもの)があって逃げられない。
作業で使う軍手などの品も普通より高く買わされ、その借金を払えない。
契約の期限が切れ、借金を払い終えると、つぶれるまで酒を飲ませられたり、契約書に判を押させ、酒や遊んだお金でまた再び借金として払わせていたそうです。
そのどうしても逃れられない仕組みに、労働者の人格は壊され、酒におぼれたり博打に手を染めて、一生ここで暮さざるを得ない人もいたそうです。
工事が遅れると困るので、警察などの取り締まりもゆるかったようです。
そんな中、この惨状に付近の地域住民は逃げてきた瀕死の労務者を必死でかくまい介抱し、衣服や食料などを与えて逃がしてあげた話もありますが、かくまって通報し報奨金をもらう住民がいたこともあるようですし、何よりも地域住民のほとんどが「タコ部屋労働」を知らんぷりしていたとも云われています。
日本が戦争に敗戦し、タコ労働が発覚、タコ部屋が摘発されました。
GHQが進める民主化政策にタコ労働は違反とされ、その後夕張などの炭鉱でも摘発されています。
昭和22年、労働基準法公布、ようやくタコ部屋労働は終息したのです。
「常紋峠」では、百数十人以上の犠牲者が、今もトンネル付近の穴に埋められています。
供養は地域の方たちにより始まっていました。
そして1970年代の民衆史活動を発端に、遺骨収集、歴史の掘り起こしが行われ、「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられました。
しかし、慰霊碑や追悼碑が建てられたからといって、おしまいではありません。
「北海道と聞いただけでヘドがでる」と言っていた、強制労働者を兄にもつ中国人女性もいたそうです。
小池先生は、次のように述べています。
「タコ=被害者、棒頭・親方=加害者」という素朴な勘定から出発し、棒頭・親方にも被害者の側面が在ることも見逃せないという体制の認識に到達して、初めてタコ労働の本質がわかると気づくまでには、数年間かかりました。 タコ部屋関係者が胸襟を開いて語りだしたのは、それからでした。」と。
歴史を正観し、少しでも向き合い、その時代の「加害者」のことをも痛みを分かち合い、人権と平和を守ってゆくことー
北海道の未来へ向けて鉄路敷設やトンネル開削をはじめとした各地の重労苦で悲惨無念にも命を落とした無名無数の先人のことを思うこと-
最後に、
「弱者無視、他人の痛みを感じないやり方を変えない限り、現在もタコ部屋は存在し続ける」
(小池喜孝著、北海道の夜明けより)
(参考資料:Mint Jam徒然草 http://jam1226.blog40.fc2.com/)
雨の降る中、心ある鉄道ファンの方が常紋トンネル工事殉職者追悼碑までを訪れている動画がありました。
やはり写真よりも雰囲気が伝わってきます。
「・・・この鉄道によって、限りない恩恵を受けている私たちは、無念の死をとげた方がたを追悼し、北海道開拓の歴史から葬られてきた人びとの功績を末永く後世に伝え、ふたたび人間の尊厳がふみにじられることのないよう、誓いをあらたにしてこの碑を建立する。
昭和五十五年十一月」
(引用資料:Mint Jam徒然草 http://jam1226.blog40.fc2.com/)
この悲惨な犠牲のあった常紋トンネル近くの金華駅そばに殉難追悼碑がありますが、2016年3月金華駅の廃止の際、鉄道ファンの方たちにはどのように感じられたでしょうか。
(参考記事)
さようなら、JR石北本線 金華駅2016年3月廃止