ばあちゃんの話

「初夏」
田植えの終わった水田は子どもながらに絵になるような風景に思えた。
それからしばらくすると若草色に田も緑が増して、カエルが鳴き、水もぬるみ、水面がきらきら輝いて木々の緑も田を渡る風も初夏の爽やかな空気につつまれた。
小学校低学年まで、いとこのナミちゃんとは大の仲良しで、最高の遊び場は森の中庭だった。小川や田んぼにはドジョウやメダカ、フナ、タニシ等、 子どもを遊ばせてくれるものばかり。
コンクリートのない土ばかりの土地は平和でやさしく、絵に描いたように田舎だった。

 


「小学校の頃」
犬や猫でも小さい頃はかわいい。
私も小さくて可愛かったらしく、先生からも周囲からも注目されていた。
小学6年生を卒業するまで、学年では成績は上の方にいたし、学芸会でも毎回、 主役で居た。
貧富の激しかった時代で、今になって考えるとドラマの"おしん"のように貧乏な子は幼い子どもをおんぶして弁当も持たず学校へ来て、みんながお昼を食べている間は子どもを連れて運動場で過ごしていたようだった。
気の毒だったと思うばかりであるが、私の家は何不自由なく、幸せな子ども時代だった。

 


「ドラム缶のお風呂」
道一つ、へだてたところに七浦地区の開拓団があった。
西村さん夫婦、娘の久子さんの3人が居られた。
昼間は誰でも開墾、開墾。雨降る日は体の弱い姉さんに編み物を教えていただいたりした。
石を組んで乗せた丈夫なドラム缶の深いお風呂が西村さんにはあった。
昼間の畑仕事が済むとお風呂をもらいに行った。
暗くなってから、石の上から飛び込んで入った。
便利な今の暮らしよりも平穏で仲良く楽しく幸せだった。


「戦争」
それまでは戦争と云っても身をもって体験する事はなかった。
戦争は内地にいる私たちでさえ二度と戦争をしてはならないと心底思う。

体験をした者しかわからないイヤな思い出がある。
戦局があやしくなった昭和19年、鹿島高等女学校2~3年生は学徒動員され、長崎県大村第2航空工場へ送り込まれた。
寮生活で軍隊式に朝5時に起こされ、5分で身支度、挨拶は「押忍」。
他の学校と16~17才から零戦作りや造船他。
学業どころではなかった。
祖国のため、天皇陛下のために働き、死ぬことが国民の務めだった。
笹をゆするようなサラサラーザァーザァーと云うような不気味な音をさせて、焼夷弾や爆弾が落ちてきた。
10月25日、ついに航空工場が狙われた。
あれほどの広大な工場群は火の海となり、医務部へ行っていた人たちは、ほとんどが爆弾で死んだ。生き残った人たちで肉片を拾った。
夜ごとに空襲のサイレンにおびえ、寝る時も着たまま、救急袋と靴を枕元に控えて寝る毎日だった。

 


「戦中」
村は、老人、女、子どもで支えるしかなくなり、農繁期には出征軍人の留守宅に中学校や女学校から勤労奉仕に行って軍馬の餌の草刈りをする所もあり、戦争に必要な鉄類は強制的に持って行かれ、贅沢は敵だと云われ、服装も戦時色に男はゲートルを巻き、女はモンペ姿。
戦争が長引くにつれて、村から若い男性や馬も戦場へ出征して、男も馬も村から消えていった。

そして台湾辺りから入ってきていた砂糖も日本へと入らなくなり、お菓子屋の我が家は没落の一途を辿った。

 


「終戦」
昭和20年8月15日、戦争は終わった。
負けたが、家に帰れる。空襲もなくなる。
悲しさとホッとした複雑な気持ちで大村を後にした。

 


「戦後」
灯火管制がなくなり、夜に電気をつけられるようになった。
でも、石けんもない、下駄もない。靴もない、傘もない、マッチもない、もちろん食糧もない。
朝起きたら、まずは裸足で土間に降りた。
学童も裸足、雨が降ったら甚八をかぶって登校。

私は浴衣をくずしてパンツを作った。

マッチもないから、一度ついた火は灰の中に木片を埋めて火種にした。
有明海に海水を汲みにリアカーで運んで煮詰めて塩を作ったりする農家もたくさん居られた。

 


「犬」
村には一軒も肉屋は、なかった。
家で作っている季節の野菜を煮たり、焼いたり食べていた。
肉や魚は、お正月や祭りの時くらいにしか食べることはなかった。
戦時下はもちろん、終戦後も人間の食糧にも事欠く有様だったから、犬は 一体なにを食べていたのだろうか。
村人は食べるものがなく、持っている着物や道具と引き替えに農家さんからなにかしかの食糧を得ていたから動物も飼えなかった。
うろうろしている犬もいたが、あの頃の犬たちは一体なにを食べていたのだろう。

 


「ナミちゃん」
片道10キロはあると思われる森から○○ちゃんと呼ばれて開拓地にいる私のところへナミちゃんが訪ねてくれた。
相変わらず食糧事情が悪く、畑も痩せ地で収穫はナシ。

作っていた西瓜を食べ頃でもないのに石に投げつけて割って食べたりした。
空襲がないようになって家の中に電気をつけてもらえたことは、感謝したいくらいうれしかった。
食糧を得るため、父は山だった開拓地に入植、まずミカンの苗を植えて、少しずつ開墾していったが、4キロ以上も離れた所で往復だけでも時間がかかり、倉庫として使っていた家の山に移築して生活できるように、井戸も掘った。
朝鮮から引き揚げてきた田中さん一家の人も開拓団に入植したが、外地から日本へ帰ってきた人々は殆ど着の身着のままで、我が家で一つのかまどと一つの部屋で山を耕した。

後に畑の赤土を水でこねて作った我が家へ移るまで同居した。